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「……あと三日かぁ」神皇帝を乗せた船が帝都を出航したとの報せがリョーメイたちの働く真珠島の神殿に入ったのは今朝早くだった。
「いい、カイジール。ひとりで勝手な真似はしないでよ?」
「わかってますって。ほんとに涼鳴さんは心配性ですね」くすくす笑いながらカイジールは波打つ黄金色の髪を銀の簪で結いあげていく。女王オリヴィエによく似た金髪碧眼の容姿を凝視しながらリョーメイは溜め息をつく。
「心配したくもなるわよ。あなただけじゃなくてミチカちゃんも一緒なのよ。今回の事態で一番辛い思いをしたのはあなたかもしれないけど、彼女を利用することだけはやめなさいよ」
「女王陛下の姫君を利用するだなんて恐れ多い。ボクはそんなことしませんよ」鏡台の前に立ち、星屑のように真珠が鏤められた夜を彷彿させる瑠璃色(ラピスラズリ)の鮮やかな長衣(ワンピース)を纏い、露出した肩を隠すように薄い藤色(ラベンダー)の紗(ストール)で包む。かの国風にいえば、長衣が裳(スカート)で、紗は袿(カーディガン)になるのだろうか? カイジールは着飾った自分の姿を見つめながら期待に満ちた瞳を輝かせる。
セイレーンより北に位置するかの国の装束はここでは暑苦しく見えるが、幾重にも重ねる単衣の色目やセイレーンでは見ることの叶わない染料で染められた淡い着物など、雅で華麗なものがたくさんあるという。美しいものがすきなカイジールからすれば、かの国は宝箱のように魅力あふれる場所なのかもしれない。 けれど、宝箱は大事に仕舞っておくよりも思いっきり引っ繰り返して周りに見せつけた方が楽しいに決まっている。 リョーメイの突き刺さるような視線を軽やかに無視してカイジールはほくそ笑む。「ナターシャ神を蘇らせ、女王陛下にご帰還願われるのならば、その前に個人的な復讐くらいさせてくれてもいいじゃないですか」
道花を利用するまでもない。自分ひとりで決着をつければいいのだ。カイジールは黙ったままのリョーメイに追い打ちをかけるように言葉を紡ぐ。
「ほんとうなら、珊瑚蓮は安全な場所に隠しておきたかったん
* * * 「……んとに神サマってのはやることなすこと極端だな」 だが、那沙にちからを返したおかげで九十九は自分で道花を救える手立てを得ることができた。まずは檻のなかで自分を傷つけつづける彼女を止めることを考えなくては。 さきほどよりも潮の匂いがきつくなってきている。那沙が海水を降らせたからだろうか。いや、それだけではない気がする。まるで海神が動きだしたかのような……「これも、珊瑚蓮の精霊が起こしたのか?」 檻のなかから『海』のちからで浄化を試みつづける道花によって、周囲の海が活性化されて生き物のように動きだしている? 樹上から見下ろせば、地面にまで海水が流れ込んできている……いや、海水だけではない。緑色の、太い植物の茎のようなものが、あちこちで蠢いている。手のひらよりもおおきな葉は、池に浮かぶ蓮を彷彿させる。書物でしか見聞きしたことのなかった植物が、九十九の前へ現れる。 ――珊瑚蓮だ。 セイレーンの海域でしか確認されていない世界を司る大樹が、かの国を侵食するかのように葉や根を伸ばしてこちらへ向かっている。 九十九は檻のなかでちからを暴発しつづける道花へ叫ぶ。「止めろ! 止めてくれ!」 銀色の閃光が九十九へ牙を向ける。だが悪しきモノに憑かれていない九十九にその浄化の閃光は効果がない。九十九は道花が囚われた檻を壊そうと手を突っ込み、詠唱する。 パキっと小気味良い音と同時に、九十九は檻のなかへ倒れこむように飛び込む。九十九に押し倒される形になった道花がギョっとした表情で、詠唱を止める。 無言のまま、ふたりは見つめ合う。 九十九は道花の火照った身体をぎゅっと抱きしめ、治癒術を施す。『地』の加護によって道花のなかで暴れていた闇鬼が凍りつき粉砕し、穴が開いていた記憶が一気に戻ってくる。 「……ハクト、だ」 道花の声が、九十九に届く。 「遅くなった」 「助けてなんて、言ってない」 自分でどうにかできると思っていた。けれど、ひとりで闇鬼をやっつけることは最後までできなかった。結局、彼を頼ってしまった。 それが、情けなくて悔しい。 けれど九十九は笑っている。「おれが助けたかったんだ」 「でも」 「マジュミチカ」 真名を囁かれ、道花の動きがぴたりと止まる。 「珊瑚蓮が、呼んでいる」 道花のちからに
「その前に、あんたをとっちめてあげるわ!」 どこからともなく響く水音とともに、銀髪の美女が降ってくる。呆気にとられた表情の玉登を見て、九十九がにやりと笑う。「誤算だっただろう? いま、ここには誓蓮の土地神、那沙さまが来ているんだ。天青石は彼女にくれてやったよ」 「そ。おかげさまでもとの姿を取り戻せたし、おまけにオリヴィエが持ってた『海』のちからまで手に入れちゃった。いまのあたし最強!」 十歳ほどの容姿だった那沙は、二十代の美女に成長していた。人魚の女王オリヴィエと比べると清楚で可憐な容姿だが、海を湛えるような碧の瞳が持つ意志の強さがそれを見事に裏切っている。 大樹や神殿に大量の水が降り注ぐ。それも、海水が。思いっきり水を被った玉登は顔をしかめ、ぶるりと身体を震わせる。 炎をあげていた神殿が呆気なく消火され、焦げた匂いが潮の香りとともに漂ってくる。「……なぜだ! なぜ誓蓮の国神にちからを戻した!」 土地神に封じられていた那沙を国神に戻すなど正気の沙汰ではない。九十九など彼女に殺されてもおかしくないというのに。「なぜって? あたしたち同志なの」 那沙は舌舐めずりをするように玉登に近づき、そっと指先で魔術陣を描く。『地』の加護を持つ玉登には、異国の呪術の方がよく効くだろうと木陰が教えてくれたから。 蜘蛛の糸のように粘り気のある銀糸が玉登を包み込み、動きを封じ込める。繭のように丸くなったそれを那沙は軽々と持ち上げ地面へ放り投げる。「……っと、神サマってやることなすこと極端すぎですよ」 九十九を守護する結界を張っていた木陰が那沙の投げた玉登の入った繭を浮かばせ、詠唱する。「――神に逆らいし斎が命じます、罪多き『地』の息子に忘却の眠りを」 「子どもはねんねしてればいいのよ」 那沙は繭のなかで木陰によって眠らされた玉登を見下ろし、ふぅと息をつく。「それより九十九。この冥界の大樹、海水だけで枯らすのは難しいわ。道花を助けるためにまずは」 「まずは?」 「あんたも檻のなかに入りなさい」 「ぅわっ!」 九十九が立っていた場所から水が吹きあがり、そのまま道花が閉じ込められている檻の傍まで吹っ飛ばされる。 それを見ていた木陰は那沙がこっちを見たのに気づき、顔を強張らせる。「そこの逆さ斎! ぼうっとしてないで次にしなきゃいけないこと考
* * * 「あんの莫迦!」 道花が檻のなかでちからを暴発させるのを待っていたかのように、神殿が炎に包まれる。狗飼一族は仙哉を幽鬼にされたことで誰もが身動きを取れなくなっていた。 バルトの『天』の血をひく悠凛だけは自力で動けるようだが、鬼神を無視して動くオリヴィエを彼らだけで止めることができるかは難しい状況だ。「神殿のことはボクに任せて」 「慈流どの……」 カイジールは至高神と取引をしたことで女性になり、自由の身になったという。詳細はわからないが、カイジールの選択は九十九に希望を与えた。彼が五代目オリヴィエを襲名すれば、いまの女王の『海』のちからは完全に消滅する。「ボクは女王陛下も道花も救う。たとえキミが女王陛下を許せないと言ってもね」 「だが、鬼神と手を組んだ央浬絵どのはもはや人魚というよりも異形に近い存在だ」 「このまま珊瑚蓮の黒花を咲かせようとしている鬼神に従って命を散らすより、桜色の花を咲かせて女王の意志で未来を選ばせた方がマシだ……たとえその先にあるのが死でしかないとしても」 珊瑚蓮の花が咲くと、女王は死ぬ。 その前にオリヴィエの名を継ぎ、カイジールは身代わりになろうとしている。 このまま黒い珊瑚蓮が花開けば、いまのオリヴィエは海神の加護を持ったまま消え、世界を混沌に陥らせてしまう。それでは鬼神の思うつぼだ。 だから至高神はカイジールを唆したのか。自分ではなく。九十九は神殿へ走って行ったカイジールの後ろ姿を見送ってから、道花の囚われた大樹の檻を睨みつける。彼女はいまも自分が傷つくのを構うことなくちからを使いつづけている。「……もうやめてくれ」 銀色の閃光が周囲を灼きつくすたびに響く彼女の悲鳴が、九十九を襲う。自分のなかに潜む闇鬼を浄化しようと自分自身に術を放つ彼女の姿は自殺行為だ。樹上の玉登は焦る表情の九十九を嬉しそうに見つめている。「珊瑚蓮の精霊もずいぶんしぶといですね。あのまま闇に堕ちてしまえば楽だったでしょうに、このままだとほんとうに死んじゃいますよ?」 「……何が望みだ」 「御身を差し出して彼女を救うつもりで? そんなことをしても彼女は喜びませんよ」 「知ってる。だからそれ以外でだ」 「では、あなたが持っている天青石をください」 人魚の女王オリヴィエが持っていたちからの半分とナターシャ神の本
* * * 意識を失ったのはほんの一瞬のことだったらしい。右も左もわからない誰もいない暗闇に、道花はひとりぼっちになったような錯覚を覚える。「……あれ、あたし」 何か大切なことを忘れてしまったような気がする。自分はこれからなさねばならないことがあったはずなのに、どうしてだろう、もうそんなことどうでもいいではないかと投げやりな気持ちになっている。 すべてを無にしたら楽になれるだろうか。そう思ったことは一度や二度ではない。けれど根が楽観的な道花はそうなるための苦しみを想像するのが厭で、結局生きることを選びつづけた。母親に生命を狙われつづけていたと知らされたいまだって…… こんなところでじっとしてなどいられない、早く彼と合流しなくちゃ!「彼って誰だっけ?」 こめかみがずきずきする。時折走るこの痛みはなんだろう、また女王が呪詛でもしかけたのだろうか。けれど、浄化をしようにも原因がわからないから、いまの道花にはどうすることもできない。 ふと、視界が拡がり、道花の前におおきな火柱が立つ。これは、どこだろう。まさか、帝都……? また、ズキリと頭が痛む。考えることをやめさせようとする頭痛に、道花は顔を顰めたまま、火柱を睨みつける。神皇帝と対立する何者かが帝都に火をつけたのだろうか。それともこれは道花に見せている幻覚か……「って、現実だろうが幻覚だろうがどっちでも消さなきゃダメでしょ」 見過ごすなんて許されることではない。道花を焦らせるための幻覚であったとしても、彼女はそれを止めさせるために動くことをやめられない。 頭痛を無視して神謡を紡ぐ。暗闇に銀色の閃光が迸る。悪しきものをすべて浄化する珊瑚蓮の精霊のちから。道花はうたうように詠唱しながら火柱を睨みつける。 けれどその先に、紫の衣をまとった少年がいる。道花の行為をやめさせようと必死になって、こっちに向かっている。どうして?「っ!」 焼けるような痛みが全身を貫く。悪しきモノを滅ぼす閃光が、自分を敵だとみなしている。なぜ? 道花は短い悲鳴をあげ、その場へ突っ伏す。まるで透明な壁に遮られているみたい。 それよりも自分を攻撃した閃光に、道花は愕然としていた。着ていたものが焼失し、素っ裸の状態に陥ってしまったのだ。 暗闇のなかに浮かび上がる自らの裸体を確認し、ふるふる身体を震わせた道花は
「そこまでわかっていて、そなたは何もせぬなんだ」 「――っ」 横たわり暗い思考を巡らせる活の頭上から鈴のような甲高い声が降ってくる。人間ではない何かが傍にいる感覚。活は声を詰まらせ、静かに瞳を閉じ、囁きかけてくる何者かの声を受け止める。「哉登の妻だっただけあるの。妾の存在を視界で判断しないとは」 さっきから室内を揚々と飛び回っていた純白の蝶。悪しきモノの気配を微塵も感じさせない神々しいまでの存在。「……ではやはり貴女が」 至高神なのか。活は戸惑う気持ちを抑えられず言葉に刺を混ぜてしまう。「哉登が殺された時は姿を見せなかったくせに、なぜいまになって現れるのです」 「あれが闇鬼に憑かれていたことを知っていて、妾を責めるのかえ? 心の弱さに付け込まれた人間を、妾が救い出さねばならぬ理由などどこにもないというのに」 嘆かわしいと至高神は哀しそうに応える。「……」 たしかに、女好きが高じて人魚の女王まで自分のものにしようとした哉登の執着は尋常ではなかった。活を離縁し、人魚の女王と懇意にしていたという男を夫として下げ渡し、人魚を殺めて心臓を喰らい若返ってまで追い求めた前神皇帝……その間、国の政を議会に任せていた彼を、かの国をはじめとした天空の守護を担う至高神は何もせずに見ていたのだろう。そして闇鬼に憑かれた哉登を恨んだ人魚の女王は自分が持つちからで彼を殺した。「まぁ、佳国(よしくに)のために国が滅ばぬよう影では動いたが、人間からすればそれでも物足りないかの」 気まぐれな神は哉登の運命を見届け、息子のなかから九十九を選んだ。活のふたりの息子たちでも玉登でもなく。 活はいままでそれを不服に思っていた。けれど至高神からすればそれが当り前のことだという。「もともと九十八代哉登が決めたことじゃ。それに、そなたの息子らは彼を支えることを妾に誓ってくれたぞ」 「なんですって」 仙哉が九十九に忠誠を誓う姿は何度も見ているが、陣哉までもが玉座を求めていなかった?「三年前の内乱は古都律華が暴走したにすぎぬ。狗飼一族は最初から最後まで九十九を立てていた。そなたの長子が死んだのは、彼に殺されたからではない、彼を護ったからじゃ」 ――陣哉が、九十九を護って死んだ?「神は嘘を好かぬ。妾は天から見ておった。残った人間が好き勝手脚色し、あれは欲に負けた愚か者だと言
身体の異変は今朝に入ってからだった。体内の臓器の一部が目に見えない何者かによって握りつぶされてしまったかのような突発的な痛みに苛まれ、寝台から起きあがることも叶わなかった。神殿の人間もまともに動ける状態にないと侍女たちが報告してくれたため、どうやら一族の人間のなかにいる誰かが闇鬼に憑かれ、喰われて幽鬼にされてしまったのだろうと見当がついたが、それが誰かは考えたくなかった。 寝台に横たわったままの活は、迷い込んできた白い蝶を見て、悔しそうに唇を噛む。「……誰も信頼してはいけなかったのだな」 ひとりきりの部屋に響く自分の声は、朝から何も口にしていないからかひどく乾いている。自分のしわがれた声を空しく感じながら、活はつまらなそうに蝶を見つめる。 狗飼一族と血の契約を結んだ活もまた、わずかながら『地』の加護を受けている。だから彼女は他のひとには見えない黒い蝶や、蝶に姿を変えた第七皇子の姿を目にすることができた。玉登はそんな活を息子の仙哉より御しやすいと判断したから、傍にいただけだ。 なぜ玉登の言葉に心動かされてしまったのだろう。夫と陣哉を失ってから、自分は根なし草のように自分を必要とする人間に縋っている気がする。バルトはそんな活を優しく労わってくれたが、彼との間にあるのは愛ではなく、妥協だ。 先の神皇帝の妃だったという矜持を限界まで引きずっていたから、玉登に利用された。そう考えれば納得がいく。すでに狗飼一族より強いちからを持つ何かが彼についているのだろう、だから活は切り捨てられた。生き残っていた仙哉を幽鬼にするという残酷な方法で動きを封じられ、寝台から起きあがることすら叶わない。 神殿が機能しない状況とは、いったいどういうことなのだろう。あれからどのくらいの時間が経過したのか、窓から差し込む陽光から判断しようにも、空には厚い雲が覆っているため太陽を拝むことができずにいる。 まるで哉登が殺されたときのようだと考え、身体中に震えが走る。まさか、この事態を引き起こしたのはあの人魚ではないのか? 人魚の花嫁。玉登はニセモノだと言っていたが、人魚の女王のようなちからを持っているのならば、帝都を乗っ取ることも難しくないはずだ……もしかしたら玉登は自分を切り捨て人魚と手を組むことにしたのかもしれない。誓蓮を奪われた人魚と玉座を狙う玉登が九十九を排除するべく







